昭和五十四年九月十五日 朝の御理解


御理解第六十二節
「昔から、人もよかれわれもよかれ、人よりわれがなおよかれというておるが、神信心をしても、わが身の上のおかげを受けて、後に人を助けてやれ。神信心も手習いも同じこと、一段一段進んでゆくのじゃ。にわかに先生にはなれぬぞ」


 まず我が身におかげを受けて、という事はどういう事であろうかと、まあいろんな難儀な問題でお取次を頂きお参りをさしてもらい、そして、それぞれの信心修行に取り組ましてもらうわけです。
 昨日、大阪の玉水教会の御信者という人が二人お参りをして参りました。成る程二人共いろんな難儀な問題を持っております、それでお取次を……とにかくこの願いがね、いろいろな問題が幾つも重なっておるわけですから、まあ向こうとしても、わざわざ遠方の所をお参りして来るから、お願いのされるだけはと思うて一ぱい書いてあったんだろうと思いますけれども、その願いが一つ一つ成就していくことの為には、お取次を頂いてお願いをする。必ずそこにはね、おかげの印しが見えますよ、だから先ず願え、願うこと頼むこと、合楽に来れば御理解を頂かれる、という事を大体聞いて見えとったんです。
 だから御理解を頂くと言うてもね、あのう、あなた方のように遠方の方の場合はそうま、しげしげとお参りして来るわけにもいかない、そこで、私がお願いをさして貰うと必ず変わったおかげの印しが必ず見える。これはもう医者がサジを投げた、という病人でも必ず変わった印しが見える、だからね、その印しを頂いて感じたらその感じた心でまた願いなさい、とね今迄よりも強い、いうなら神様を信ずるという力で願う事が出来る。また印しが見える、だから今度はもっと大きな力で願うのです、と言うように信心はそう言うふうに育って行かなきゃいけんのです。
 お願いをしたら確かに印しが見えた、例えば御飯がたべられんなら食べられん、いろいろな問題がありますよ、睡られんなら睡られんというねお願いをする、ならそれが、はあ、今日はおかげで睡れた、これは印しなんです、あんなに食事がいけなかったのが、おかげでお粥さんの一杯も頂けた、これがおかげの印しじゃろうと思うところに力が出来る、神様を信ずる力がそれだけ出来るから、その信じた力でまた神様へ願うのだと、すと、そこにはもっと大きな印しを見せて頂けれるね、これはおかげを頂いていくという事と同時に御理解を頂いて、まここでは遠隔の人達はおかげの泉で皆おかげを頂いておるから、おかげの泉をいっちょ繰り返し繰り返し読ませて頂いて、それこそただ読むと言うても、ゆはり読めば何かそこに分かる、分からんは別として感じるものがあるね。そこには神を感じるのであり、また自分を感ずるのである。
 そこに、自分を感じた時には改まるより他にない、神を感じた時には神を信ずる力がいうなら強うなってくる。そう言うところから神様との交流が始まっておかげのルートが開かれるわけだ、と言うて話した事でしたけれども、印しが出来た、印しを受けたけれどもそれを次の強い力で印しを頂こう、とする意欲をもつた人が少ないですねえ。お参りしてちょいとはおかげ頂いたごたるばってんが、やっぱり駄目じゃったと言ったようなね、次のいうなら信心の手掛かりというものを頂こうとしないからなんです。それで私はその方達に、大体ねあなた方が大阪から合楽までわざわざお参りをして来た、という事はもうおかげを頂いたという事も同じだよとね、その位なやはりひとつの信心というか力というものをね頂く、これは皆さんでも同じこと。
 合楽に御神縁を頂いた、も合楽に帰依したと、自分の心がそう感じた時にはもうあなたは助かったんです。あんばい見にいっちょ参って見ろか、位なこつはもうそれこそあんばい見は一つ、と昔から言うちゃるように、印しだけしか見えてこんのです。あんばい見はいっちょですね、だからそのあんばい見からよいから、その印しが見えたならば、その印しという事は、神様の働きを感じるわけですから、その感じた心でまた一段と進んだ神様を求めていかなければならんのだという事ね。
 だから、いうなら合楽でそういう信心、縁を、合楽に縁を頂いたという事はもう助かるという事と同じ事、いうならば、合楽という安心の船なら安心の船に乗らして頂いたも同然なんだから、それを合楽からね、降りたり疑うたりするから又おかげの、いうならばぶり返しになっていく、堂々まわり的な事になってくるね。もうそれこそ我救われたという、ならば実感が出来てきたら、も助かったのも同じだと言うふうに申しました事でしたけれども。
 昨日、福岡の川上さんがお参りをして見えて、前の日の十三日会の日に、もう本当に皆さんの発表を聞かせてもろうて、本当に感動のし続けでしたと、も本当に有り難い有り難いで外まで、出口のとこまで出ましたら丁度私の目の前を一台のトラックが行き過ぎました、そのトラックには大和運輸とあった、そして下に、任せて安心と書いてあった。ま運送店でしょう。だからこの運送店に頼めば、任せときゃ大丈夫という、いわばキャッチフレーズでしょうね、それを見た途端にまた感動が大きくなったという。
 大和とは、大きい和と書いてあるね、これは、親先生の事であろうと、いうなら大きな安心を頂いておる方として頂いた。そして下には、任せて安心と書いてあった。親先生まかせになっときゃ大丈夫と思うた。まあそれから感動がまた大きくなって、今日まで感動が続いておりますと言う、ね、お届けが昨日ございましたがですね、いうならば任せて安心なのにも関わらず、帰りには又心配をもってかえる、ここでお取次を願うた、それでなかなかそのお話し頂いとったり、拝んだりしておる時には、はあ、これで助かった、これでおかげ頂くと思うけれども帰りがけには、ちょっと何かに触れますと、そこからね不安が起こってくる、心配が起こってくる。
 昨日は、高橋さんの奥さんの叔父さんに当たる方の三十五年の式年祭がここでございました。その時に頂いた御理解でしたけども、祟り目に障り目という言葉がありますでしょ、弱り目に祟り目です、書いとった、皆さんも知っておられるでしょ、そういう言葉がある、よわり目にたたり目。
 昨日、私は足の座りダコがもう化膿して、昨日のような痛みを感じた事はございませんでした。もうウズくんです、それも何分おきにかウズくんです。とうとう御無礼して足は投げ出して、そして皆さんにお話を聞いて頂く時もそげんしとりましたが、もう兎に角、これは矢野先生が何時もここ治療して下さって、何時も、こうして下さってある、ガーゼをつけて、そのガーゼのつけ方が悪っちゃなかやろか、足袋を脱いでみたけれどもいけん、二回も私はつけ替えて貰ってしたけれどもやっぱいかん、そして午後になって又ここに出て来てから、そのウズきますからいろいろ思いよって、あ-今日は高橋さんところの叔父さんという方の霊祭があるたい、そういう事が霊祭を仕える時には必ずあるんです。私の身体に、霊神様が喜びとか、一つの訴えとか、と言うようなものを求められる場合があるのです。
 もう昨日は、私は以前の糖尿病の時のように、もうお水ばっかり限りなく昨日は飲んだんです。だから、ふと私は感じさせて頂いてから、はあ、今日の霊様は水を求めてござるとかも知れんと言うて、私、大きな鉢に氷をいっぱい入れてお茶と、それからお水をお供えさして頂いた事でしたけれども、そして思ったんです、ははあ、弱り目に祟り目という言葉をですね、私の身体で一番弱っているところは今のその足の化膿しておるところ、まあ兎に角痛いところ、ここが弱り目、だから霊様が例えば頭痛をおこさせたり、腹痛をおこさせたりして、霊が今日喜んでおる印しを例えば見せて下さる、又はおすがりしておる印しを見せて下さるのに、何処へいうならばその障ったら良いか、と言うと結局私の一番弱い私の足の痛いところが一番、私の、いうなら弱り目になるわけなんですね。だから弱り目に祟り目という言葉の意味が分かるでしょう、これはもう確かにそういう理があるんですね。
 も本当に、ああきっさ、と言うたらそのきつい、と言う心に死神が集まると神様が仰しゃった。ああきっさ、という弱音をはくところにそういう、いうならば死神がついてくる、集まってくるという事にもなるのですね。だからそれと反対の事もだから言えるのです。どんな中にあっても一つもヘコたれない、にこやかにあれば、いうならば貧乏神が離れて、いうなら福の神と変わる、という事にもなるんですけども、なら福の神が変わりよい心の状態をつくる事が信心ですね。それに例えば貧乏神や死神が集まるような思い方やら考え方をすると、その弱目につけこんで死神が集まったり、いうなら祟り神が集まったりするわけです。
 私は、昨日霊のお祭りを、もしそれが本当ならお祭りを仕えたら違わんごつ途端にすきっとするだろう、と思ったら本当にすっきりしたんです。後から御直会頂きながら高橋さんと話した事でしたけれども、もうあげん痛うして何遍もつけ替えなんとが、おかげで水もすかっと、もそれっきり飲みませんでしたね。そうしたらお母さんが見えとりました。奥さんのお母さんも見えとりましたが、実は戦死でございます、戦死もその何々島で玉砕をしとります、だから亡くなる時にはお水を求めた事でしょう。という話をなさいました。だから昨日の水が生きてきた。
 私、神様にその事を御礼申さして頂いとりましたらね、あの茄子を頂いたんです。いうなら茄子は安心とこういう、今日皆さんに聞いて頂こうとする芯がそこにあるんです。茄子という事は安心とこう言われる、いうならば、もう数年も十年もなるでしょうか、前にその高橋さんのところの奥さんの里の霊様までここにお祭りをしております。そして初めてお里の霊様の三十五年の式年をさして頂いたんです。いうならば合楽に御縁を頂いたというだけで、もう今日言う安心だという事です。
 皆さんがどういう心配を持って来ても合楽に縁を頂いた、という事はもう助かる、という事と同じなんだとね。ところがあの、茄子のお知らせは何時も申しますようにね、イガを超えてなるものだね、なり口のところにイガイガがついとるでしょ、そのイガイガのところをね、包丁で削って取っておるところを頂いたんです。御心眼に、ははあ、合楽に御縁を頂いて合楽の、いうならば安心の船に乗っていながらも心の中にはイガイガ、ジカジカがあったんだなあ、という事です。いうなら折角合楽に御縁を頂いたから、早う例えていうならば、お祭りの一つでもしてくれればいいのに、と思うとったかもしれません。ならこれは皆さんの場合でいうなら合楽に御縁を頂いた、もう助かったも同じだという、その心の状態を持ち続けるという事は実を言うたらやはり至難です、難しいです、心配事お願いしてから又心配を持って帰るです。
 親先生に、お取次ぎを頂いたらそれこそ大和です、大和運輸です、大和運輸に頼んでさえおきゃ、いうなら任せて安心なんです。それを合楽の人達は親先生任せになること、親先生任せ、という事をま、いうわけですね。だから任せきれんところにイライラがあったり腹が立ったり又は心配、不安があったり、それがおかげの阻害をする、おかげの邪魔をする、安心のいうなら霊様が合楽の船に乗らせて頂いておりながら、いうならばイライラ、ジガジガがあったけれども今日のお祭りをさかいにです、このジガジガが取れた、そして安心のおかげ、喜びの霊として、これから限りなく又精進をしていく事であろう、という御理解でした。
 私は今日の八十一節、まず我が身におかげを受けて、これをいうなら此の頃から難しい御理解を頂きますよね、あの観念という事、お互いがね、この食べ物はこの病気にいかん、この食べ物は身体にきく、自分で決めてる、まあ一つの学問の上から栄養がある、ない、という事でしょうけれどもそれが観念なんです。それこそ神様のお恵みの物として頂いたら栄養価値がない、と言われとるものでもいうならば、それが血にも肉にもなるのです。だからこの観念を捨てる、という事は非常にやはり神様を頂いて、おかげを頂いた上にも頂き実験に実験を重ね、実証に実証を重ねていきませんとその観念が取れません、その観念がおかげの邪魔をするのです。
 信心は段々その、いうならそれを、ま、人間心とも申します。その人間心が取り拾われたところに残る神情、神心、いうなら和の心、喜びの心におかげが受けられる、と言うそういう一つのシステムのようなものが信心の世界にはあるのですね。これは勿論受け物が出来て頂くおかげですから、もうそのままがおかげであり、徳であり力でありましょう。ですから皆さんが合楽に御神縁を頂いてです、はあ、これで自分も救われた、助かったというその心をです、いよいよ高めていく精進をさせて頂くならばね、それこそ俄かには先生になれんだろうけれども、いうならば立派なよい真の信者になる事が出来る事でしょうね。
 先ず自分が助からなければ、なら自分が助かって人に話さなければ、とこう言いもし思いもしますけれどもね、合楽に御神縁を頂いた、これで私は助かった、私の助かりの場はここにあった、ともし感じれたらです、それをそのまま人に伝えてもいいのじゃないでしょうか。自分が助かってしまわなければ人が助けられんと言うのではなくて、私は合楽にお参りをして御理解を頂いてるうちに、私の助かりの場はここにあったと感じた、という話をしたらいいんじゃないでしょうか、人に伝えていったら良いのじゃないでしょうか。そして自分としてはその助かったという心をですね、願わしてもらう、そこには又おかげの実証がある、又その思う神様を信ずる力はいよいよエスカレートして行くわけです。
 私は、そういうね信心を頂きたいと思う。一遍参っておかげは頂いたばってん、二度目にはおかげ頂ききらんやったと、神様はござるじゃ、ござらんじゃろ分からんですばい、やっぱありゃ神様のおかげやったっちゃろか、とおかげでもおかげでなかったかのように思うような、いうならば傾向が人間の心の中にはあるんですね。だからそういう言うなら、おかげの受けられない心の状態をうち払いうち払いして、いよいよ神様を信じて疑わんですむ生き方をめざして頂くという事がです、とりもなおさず信心が一段一段進んでいく事になるのですね。
 私は先ず、昨日の霊様じゃないですけども、合楽世界に御縁を頂いておるから茄子のおかげを頂いておるけれども、まあだ心がイガイガしておられた、という事になるのじゃないでしょうか。そのイガイガが一杯の水も与えられないと言ったような、合楽世界におりながら不自由しておられた霊、というても良いのじゃないでしょうか。合楽教会に御縁を頂いた、合楽に信心の縁を頂いた、も即ち私の助かり、私の助かり場はここだ、と腹が決まった処からです、今、今日皆さんに申しましたような過程を追うての信心の稽古をしておられるなら、いよいよいうならジガジガもなくなるでしょう。不安、心配もなくなって来るでしょう。それは一段一段徳を受けていくからです。徳を受ければ心配はない、という世界をめざさしてもろうて行く、だから私が、こういう一つの形の上におかげを頂かなければ人にも伝えられん、という事ではない。本当いうたら自分の観念的なものを取り外したら合楽に縁を頂いた、あ-、これで助かられる、というこの感じがですね、もうあなたはすでに助かったという事になるね。その心の喜びとか心の状態を人に伝えていく、という事になればもうね、初歩の時から人にもお導きが出来るお話も出来るという事になりますよね。 どうぞ。